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甲子園、その年の監督は19歳。

日が変わってしまったけれど、5月8日は沖縄水産高校 野球部元監督の
栽 弘義さんの命日。

沖縄水産の栽監督といえば熱心な野球ファンなら覚えているだろうか…。90-91年と2年連続で沖縄水産を準優勝に導いた『名将』である。沖縄では知らない人は居ない。

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今でこそ沖縄の野球レベルは高いけれど、その礎を築いたのは他でもない栽監督だ。

栽監督は1964年、小禄高校に赴任し、高校野球の監督としてキャリアをスタート。その後、豊見城高校の監督に就任。1975年には好投手赤嶺を率いて春の選抜に出場している。その頃の沖縄は日本復帰3年目で 高校野球においても全国最下位レベル。 沖縄のチームは弱小だったから出場するだけで判官びいきの拍手を受けるような状態だった。当時無名だった豊見城だけど、初戦でその年の夏に全国制覇する習志野高校を破る快進撃を見せ、一躍全国区にーーー。

ーーーその時の野球部に亀谷という選手が居た。

彼は家庭の事情で進級出来ず年齢制限にひっかかり、試合に出場することがどうしても認められなかった。

そこで、栽監督のみせた采配が粋。

なんと、その亀谷選手を監督登録し、自らは背広を着て部長として指揮をとったのである。

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鬼監督と言われ、その指導方針は賛否両論あったけれど、この『策』については栽監督の選手に対する思いやりが伺える。結果的にベスト8で現巨人監督•原辰徳要する東海大相模に接戦で敗れるも、『19歳監督』は史上最年少監督として記録され、今なお伝説となっている。

「優勝旗を手に入れるまでは 戦後が終わらない」

そう言い続け、凄まじい執念で高校野球に向き合った栽監督。実際、沖縄県民にとって甲子園は特別だった。試合中は街から人影が消え、皆ラジオやテレビにかじりつく。

沖縄戦の焼け野原、アメリカ統治、B円、ロックンロール、ベトナム戦争、コザ暴動、基地問題、高失業率。1972年の日本復帰後も沖縄県民はアメリカと日本の狭間でがんじがらめ。そんな状況で県民の心をひとつにしたのはやっぱり甲子園だった。

1999年春選抜大会、沖縄尚学が沖縄県初の甲子園優勝し、紫紺の大旗が初めて海を渡った。

ーーー その年の選抜大会の行進曲は沖縄県出身のkiroroの「長い間」。

(長い間、待たせてごめん)

歌詞にある通り、待ちに待ったこの優勝は県民に感動と勇気を与えてくれた。

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